近頃、みなもと太郎にはまっている。
ご存じない方の為に、簡単に説明すると
1960年代末頃にデビューしたマンガ家で
その作風は、パロディ・ギャグである。
例えば初期の代表作『ホモホモ7』は
007のようなスパイアクションをベースに
ギャグ風、少女マンガ風、劇画風と
キャラごとにまたシチュエーションごとに
書きわけるといったスタイルなのである。
まずは、スパイ・アクションのパロディであり
他作家のマンガや、その手法自体をパロディにしている。
その他、当時の流行の映画や絵画などからも引用している。
マンガ高度成長期にパロディを意識的に取り入れた
作家として知られている。
いまでは、パロディ・ギャグは珍しいものではなくなったが、
70年の少年マガジンに連載されていた『ホモホモ7』は
いままでに無いギャグマンガとして、当時の読者たちに
新鮮な驚きを与えていたとのこと。
その後も世界の古典をパロディギャグ化した
『レ・ミゼラブル』『ハムレット』『スターウォーズ ドン・キホーテ』や
日本の歴史を扱った大河シリーズ『風雲児たち』など・・・
精力的に作品を発表し続けている。
また、同時に島本和彦の作品にもはまっていた。
この人もパロディギャグがスタイルである。
80年代にデビュー。
熱血少年マンガの流れを汲んでおり、
作画のタッチは、石森章太郎、永井豪、松本零士、本宮ひろ志などの
影響が濃いようだ。
マンガでなければあり得ないような過酷な状況に
追い込まれる主人公が、過剰な熱気で挑んでいく様が、
大まじめなんだけど、可笑しい。
例えば高校野球マンガ『逆境ナイン』では、
地区予選決勝で相手に100点差もつけられてしまうという
馬鹿馬鹿しい展開になる。
その巨大な逆境に耐え、異常に燃えて点差を縮めていく主人公・・・・・・。
「んなアホな」と白けそうになるところを、異常なバカの異常な熱気に
あてられ、読んでゆくと結構、感動してたりする。
まさにマンガでしか味わえない感覚。
マンガはこうでなくっちゃ!というすがすがしさまで訪れる。
みなもとの『レ・ミゼラブル』は全編のほとんどが、
ゆるーいギャグの連続で物語が進んでゆくのだが、
ラストシーンは思いもかけない深ーい感動が押し寄せてくる。
みなもとと島本は世代は違うし、作風もかなり違うが、
二人ともかなりのマンガ・マニアやオタクであり、
膨大な先行作品を浴びるように読み、見てきており、
デビューの際、時代に切り込むためにパロディという手法を
意識的に戦略に用いたという点は似ている。
映画でいうと、クエンティン・タランティ-ノのような立ち位置に近いかな?
パロディの概念を、wikiで調べてみると・・・
「パロディとは先行作品に対する批評的な相違を伴った模倣であり、
常にパロディ化されたテキストという犠牲を払うものではない」
「他の文化的生産物や活動に対する、
相対的な反論の引喩となる模倣作品を生産する、
あらゆる文化的活動」
わかりすくいうと
先行作品からの引用と模倣・・・ただ猿真似するだけでなく
そこに新しい見方や価値観を見いだす手法ということになるだろうか
と、ここまで考えてゆくうちに、あらゆる表現活動の本質は
パロディにあるのではと考えたくなってきたのだけど
これは、言い過ぎだろうか?
自然界、人間社会・・・・・・それぞれの創作者たちは様々な現象から、
モチーフを拾ってきて作品を作ってゆく。
そこには、現象に対する感情や思想が盛り込まれる。
あ、話が大きくなってきたな・・・・・
もうちょっと、この話、展開したいので、次回に続けます。
ご存じない方の為に、簡単に説明すると
1960年代末頃にデビューしたマンガ家で
その作風は、パロディ・ギャグである。
例えば初期の代表作『ホモホモ7』は
007のようなスパイアクションをベースに
ギャグ風、少女マンガ風、劇画風と
キャラごとにまたシチュエーションごとに
書きわけるといったスタイルなのである。
まずは、スパイ・アクションのパロディであり
他作家のマンガや、その手法自体をパロディにしている。
その他、当時の流行の映画や絵画などからも引用している。
マンガ高度成長期にパロディを意識的に取り入れた
作家として知られている。
いまでは、パロディ・ギャグは珍しいものではなくなったが、
70年の少年マガジンに連載されていた『ホモホモ7』は
いままでに無いギャグマンガとして、当時の読者たちに
新鮮な驚きを与えていたとのこと。
その後も世界の古典をパロディギャグ化した
『レ・ミゼラブル』『ハムレット』『スターウォーズ ドン・キホーテ』や
日本の歴史を扱った大河シリーズ『風雲児たち』など・・・
精力的に作品を発表し続けている。
また、同時に島本和彦の作品にもはまっていた。
この人もパロディギャグがスタイルである。
80年代にデビュー。
熱血少年マンガの流れを汲んでおり、
作画のタッチは、石森章太郎、永井豪、松本零士、本宮ひろ志などの
影響が濃いようだ。
マンガでなければあり得ないような過酷な状況に
追い込まれる主人公が、過剰な熱気で挑んでいく様が、
大まじめなんだけど、可笑しい。
例えば高校野球マンガ『逆境ナイン』では、
地区予選決勝で相手に100点差もつけられてしまうという
馬鹿馬鹿しい展開になる。
その巨大な逆境に耐え、異常に燃えて点差を縮めていく主人公・・・・・・。
「んなアホな」と白けそうになるところを、異常なバカの異常な熱気に
あてられ、読んでゆくと結構、感動してたりする。
まさにマンガでしか味わえない感覚。
マンガはこうでなくっちゃ!というすがすがしさまで訪れる。
みなもとの『レ・ミゼラブル』は全編のほとんどが、
ゆるーいギャグの連続で物語が進んでゆくのだが、
ラストシーンは思いもかけない深ーい感動が押し寄せてくる。
みなもとと島本は世代は違うし、作風もかなり違うが、
二人ともかなりのマンガ・マニアやオタクであり、
膨大な先行作品を浴びるように読み、見てきており、
デビューの際、時代に切り込むためにパロディという手法を
意識的に戦略に用いたという点は似ている。
映画でいうと、クエンティン・タランティ-ノのような立ち位置に近いかな?
パロディの概念を、wikiで調べてみると・・・
「パロディとは先行作品に対する批評的な相違を伴った模倣であり、
常にパロディ化されたテキストという犠牲を払うものではない」
「他の文化的生産物や活動に対する、
相対的な反論の引喩となる模倣作品を生産する、
あらゆる文化的活動」
わかりすくいうと
先行作品からの引用と模倣・・・ただ猿真似するだけでなく
そこに新しい見方や価値観を見いだす手法ということになるだろうか
と、ここまで考えてゆくうちに、あらゆる表現活動の本質は
パロディにあるのではと考えたくなってきたのだけど
これは、言い過ぎだろうか?
自然界、人間社会・・・・・・それぞれの創作者たちは様々な現象から、
モチーフを拾ってきて作品を作ってゆく。
そこには、現象に対する感情や思想が盛り込まれる。
あ、話が大きくなってきたな・・・・・
もうちょっと、この話、展開したいので、次回に続けます。
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