子どもの頃、
夢中になって読んでいたマンガを
青年になってから読み返して
がっかりしたことってないですか?
こんなチャチなもので真剣になれたのか~
と子どもの頃の自分に感心。
膨大な情報や理屈によって構築されないと
満足できなくなってゆくのが、大人。
それはそれで、知識を積み重ねてゆく
快楽はあるのだけど、
それって本当に豊かなことなんか?と
疑問も抱く。
少ない情報で、心を躍らせる方が
効率が良いのではないか。
芥川龍之介は、大昔の人間のほうが、
情報に汚染された現代人より
遙かに言葉に対する感度が鋭かったのでは
ないかと思ったそうである。
例えば「花」という一語は
現代人にとっては無味乾燥な記号にしか過ぎず、
多くの装飾をしなければ花の美を想起できない。
しかし、大昔の人間にとっては、
たった一語だけでも、多種多様の花の形や香りを
イメージできたのではないか。
私は、そうした能力ないし現象を
「脳内ブローアップ」と呼んでいる。
中世ヨーロッパでは処女を白百合に喩えたそうだが、
それは近代人が思うような比喩ではなく、
中世人にとっては
まさに処女と白百合は同質のものであるという
強固なイメージとしてあったという話も聞いたことが
ある。
近代的思考に限界を感じていた
芥川は古典に材を求めることも多かった。
多くの言葉をむやみやたらに積み重ねるのではなく、
短い語句に豊穣を想起できる感性を取り戻したかった
のではなかったろうか。
が、そうした思考を巡らせてしまう芥川こそが、
何よりも近代人であった。
彼が、若くして自死してしまったのには、
そんな近代的自己に限界を感じたからかもしれない。
それはゴッホが日本の浮世絵に創作意欲を
刺激されたプロセスに似ている。
そして、彼もまた、自ら命をたった。
彼らは真面目すぎて、
なおかつ性急すぎたのではないだろうか。
30代半ばを過ぎて、若干、一部の能力が
低下してきたなと感ずる時がある。
今後は、体力も記憶力も、どんどん落ちる。
だが、その代わりに、子どもの時のような
豊かな脳内ブローアップ能力が
再び、蘇るのではないかと思っている。
老人の作った作品は、青年にとって
刺激の少ない退屈なものに写りやすい。
それは青年期の情報処理能力の高さゆえである。
20歳前後には、つまらなかった作品が、
最近、別の感慨を抱かせてくれる場合が
多くなってきた。
老境に入ると、一日一日が若いときに比べて
はるかに貴重なものになってくるらしい。
世界の充実度が増すということだろうか。
そう思うと、老いが楽しみになってくる。
老境の私は、どのような世界を見るのだろうか。
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1. posted by 2011/06/25
09:40
もうマンガは描かないのですか?
Re:無題
いえいえ、描きますよ~