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[ 2024/11/24 13:11 | ]
精神と演劇、病いと癒し
ドキュメンタリー映画監督、想田和弘の
著書『精神病とモザイク』を読む。

映画『精神』の製作過程と上映後の状況を
つづった本である。

『精神』は、岡山県にある「こらーる岡山」という
精神科の診療所とそこに集う患者やスタッフの
姿を追った作品である。

想田監督の最新作『演劇1』『演劇2』も
ベラボーに面白い作品だが、
『精神』もたいへんな力作である。

僕は『精神』と『演劇1、2』を立て続けに
観たが、同じ作者によるものなので
当然ながら良く似ている。

正常/異常
素体(現実)/演技(虚構)

の境界がいかに曖昧で、
実は峻別がたいへん難しいということ。

また、精神科医と精神病患者、
演出家と俳優の関係性が
よく似ていること。

どちらも人の心の問題を
扱っているいるからだろう。

ただし、大きな違いもある。

『精神』の被写体(患者)と
『演劇1、2』の被写体(俳優)では、
前者の方が、
撮られることの重みが
格段に重くデリケートである。

当然ながら、
劇団は観られることが
商売なので、
撮られることのメリットは大きくとも
デメリットは少なかろう。

だが、精神病患者はそうはいかない。

想田映画(観察映画と呼称している)は、
ノーテロップ、ノーナレーション、ノーミュージック、ノーモザイクが
鉄則である。

観客に、ある先入観を持たれたり、
偏った感想に誘導してしまわないための
手法である。

そんなわけだから、
撮られた側は、撮られたままの状態を
他人に観られてしまうことになる。

映画のせいで、被写体が
傷つくことが起こるかもしれない。

『精神』に登場する患者達は、
皆、社会的に追いつめられ
傷ついてきた人ばかりだ。

その傷を、広げてしまうことに
なるのではないか?

撮影中、編集中、
上映前、上映後、
常に監督はそのプレッシャーに
襲われる。

創作とは、
なんと恐ろしいものか。

しかし、本を読み進めていて、
僕は、何度も涙が出そうになった。

ただ、映画が刺激的で
面白いものとしてあるだけでなく、
患者達の〈癒し〉の契機に
なればと奮闘する監督。

また、映画の存在に
戸惑い、焦燥し不安になりながらも
自分の病を克服しようとする患者たち。

8割、9割の人には撮影を
断られたそうだ。

そういう意味では、
映画に出ていた人達は
強い人たちなのかしれない。

そうした状況を受け入れ、
静かにバックアップしたのは
「こらーる岡山」の代表・山本昌知医師。

本の中の監督との対談で

結局、科学や薬だけでは、
人の心を完全に癒すことは
できない。
一番大事なのは、人とのつながりで、
現代の人が孤独になりやすい
環境が問題である。

といいうようなことを
おっしゃっていた。

本を読み終わり、
『精神』という映画によって

患者と患者
患者と医師

との絆はより」強固で深いものに
なり、

患者と監督
監督と観客
観客と患者
観客と観客

という新しい関係も芽生えたようである。

そこに、僕は泣いた。

無論、なにもかももが
いきなり解決するわけではない。

現代の精神医学には、
問題が山積みで、
閉鎖病棟に閉じこめられ、
薬漬けになっている人達は
たくさんいるし、
自殺者の数は増える一方なのだ。

山本医師のいう
簡単に孤独にならないような
社会は、どう作っていけばいいのか?

山本医師のいう「人薬(ひとぐすり)」とは
いかに育めばいいのか?

そんな疑問を投げかけたまま、
本は終わるが・・・・・・

そのアンサーとして
『演劇1、2』があると思う。

演劇は、舞台の上に
人間の心を浮かび上がらせる
技術の集積であるから。

効用は、あると思う。

実際、
近頃、僕は
想田観察映画と
平田現代口語演劇に
そうとう癒してもらっている。

人は孤独である。
だからこそ、人とつががる可能性を
秘めている。
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[ 2012/11/21 18:34 | Comments(0) | 雑想 ]
『東京物語』再見
平田オリザの戯曲『東京ノート』を読んだ。

で、
平田がこの傑作を書く契機となった
小津安二郎監督の映画『東京物語』が
観たくなった。

観るのは十数年ぶり。

若い頃は、決してつまらくはないが、
騒ぐほどおもしろいというほどではない
といった印象だった。

ドラマに興味が薄かったのだろう。
他者や死といったものにも鈍感だったのだろう。
脳天気だったのかもしれない。

『東京物語』は、重いドラマの映画である。

その重さは前面・全面には出てこないので
人の生死に鈍感な者は気がつかない。

気がつく者だけにわかってもらえばいいと
云わんばかりに

場面の背後や場面と場面の間に
注意して観ていないと気がつけない
符牒が忍び込まされている。

それは、日常生活の背後にある
絶対的な宿命・・・・・つまり、死である。

そんなことは、四六時中意識していては
やっていけない。

だから、皆、忙しく働き、
生活に埋没するしかない。

登場人物が発する言葉は、
それだけで耳にする分には
たわいもない日常的なものばかりだ。

だが、構成や編集といった
映画技法によって再構築された
世界では、それらがひどく劇的なるものに
変貌する。

原節子の「私、ずるいんです」しかり
笠智衆の「今日も、暑うなる・・・」しかり

繰り返される日常。
繰り返される言葉。

何度も何度も、同じような構図が
繰り返されるも、それらは決して
同一ではない。

時間は確実かつ残酷に流れ、
人間は、そのことに、戸惑いつつ
ただただ耐え忍ぶことしか
できない。

小津は決して
日常賛歌も人間賛歌を
謳っているわけではない。

この世界をどう堪え忍ぶか
そんなヒントを
小津映画は示唆してくれる。

[ 2012/11/18 18:29 | Comments(0) | 雑想 ]



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