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[ 2024/05/17 15:11 | ]
ネタバレしたっていいじゃない
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近年、映画評などでよく使われる言葉に、
「ネタバレ」というのがある。
ストーリーの説明する際に、重要な転換点やオチを
語ることだが、これを過度に神経質的に
規制する風潮が見受けられる。

「ネタバレ禁止」「ネタバレ注意」というやつだ。

ネタバレは、所詮は言葉での行為である。

映画の面白さは、ネタだけにあるのではない。
いくら、オチがわかっていても、面白いものは
面白い。

本当に面白いものは、何度でも観られるでしょう。

特にネタバレに神経質になるのが
ミステリものだけど、
『悪魔の手鞠歌』や『羊たちの沈黙』などは
何度見ても面白い。

映画に限らず、ミステリ小説だって
優れた作品は幾度も読み返せる。

ネタがどうでもいいという話ではない。
ネタは、作品の一部にしかすぎないという
ことなのだ。
ネタバレは作品鑑賞の上で、あまり妨げに
ならないと思うのだ。

ネタバレ神経症的感性は
映画体験なり小説体験なりを
貧しいものにしている気がする。

「木を見て、森を見ず」というやつだ。

それは流言飛語に惑わされやすい感性と通ずる。
大局を見る感性が養われていないから、
根拠の無い言葉に、パニックしてしまう。

みんな、広い心で、世界を見ましょうね。
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[ 2011/06/25 16:16 | Comments(1) | TrackBack() | 技術 ]
脳内ブローアップ
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子どもの頃、
夢中になって読んでいたマンガを
青年になってから読み返して
がっかりしたことってないですか?

こんなチャチなもので真剣になれたのか~
と子どもの頃の自分に感心。

膨大な情報や理屈によって構築されないと
満足できなくなってゆくのが、大人。
それはそれで、知識を積み重ねてゆく
快楽はあるのだけど、
それって本当に豊かなことなんか?と
疑問も抱く。

少ない情報で、心を躍らせる方が
効率が良いのではないか。

芥川龍之介は、大昔の人間のほうが、
情報に汚染された現代人より
遙かに言葉に対する感度が鋭かったのでは
ないかと思ったそうである。
例えば「花」という一語は
現代人にとっては無味乾燥な記号にしか過ぎず、
多くの装飾をしなければ花の美を想起できない。
しかし、大昔の人間にとっては、
たった一語だけでも、多種多様の花の形や香りを
イメージできたのではないか。

私は、そうした能力ないし現象を
「脳内ブローアップ」と呼んでいる。

中世ヨーロッパでは処女を白百合に喩えたそうだが、
それは近代人が思うような比喩ではなく、
中世人にとっては
まさに処女と白百合は同質のものであるという
強固なイメージとしてあったという話も聞いたことが
ある。

近代的思考に限界を感じていた
芥川は古典に材を求めることも多かった。
多くの言葉をむやみやたらに積み重ねるのではなく、
短い語句に豊穣を想起できる感性を取り戻したかった
のではなかったろうか。
が、そうした思考を巡らせてしまう芥川こそが、
何よりも近代人であった。
彼が、若くして自死してしまったのには、
そんな近代的自己に限界を感じたからかもしれない。

それはゴッホが日本の浮世絵に創作意欲を
刺激されたプロセスに似ている。
そして、彼もまた、自ら命をたった。

彼らは真面目すぎて、
なおかつ性急すぎたのではないだろうか。

30代半ばを過ぎて、若干、一部の能力が
低下してきたなと感ずる時がある。
今後は、体力も記憶力も、どんどん落ちる。

だが、その代わりに、子どもの時のような
豊かな脳内ブローアップ能力が
再び、蘇るのではないかと思っている。

老人の作った作品は、青年にとって
刺激の少ない退屈なものに写りやすい。
それは青年期の情報処理能力の高さゆえである。
20歳前後には、つまらなかった作品が、
最近、別の感慨を抱かせてくれる場合が
多くなってきた。

老境に入ると、一日一日が若いときに比べて
はるかに貴重なものになってくるらしい。

世界の充実度が増すということだろうか。

そう思うと、老いが楽しみになってくる。

老境の私は、どのような世界を見るのだろうか。

[ 2011/06/24 21:51 | Comments(1) | TrackBack() | 技術 ]



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