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ここ最近、
藤子不二雄作品の
面白さを、あらためて
噛みしめている。
というか
あまりの巧さに
「すげえーっ」と
うなっている。
幼稚園から小四ぐらいまで、
藤子不二雄ワールドに
どっぷり浸かっていた。
だが、年を重ねるにつれ
興味の対象は変わってゆく。
藤子不二雄に対する憧れも
薄くなり、いつのまにか
子どもの時の思い出になってしまい
現在形で意識する対象ではなくなった。
20代の頃には、
ほとんどたわいもないものとして
軽んじていたような気がする。
(無論、Fの大人向けのSF短編は
また別の感慨はあった)
だが、いま、中年期に差し掛かって
読み直してみると
とてつもなく面白い。
特にFの児童向け作品。
人生の半分あたりを過ぎて
ノスタルジー的に
味わっている面もあるだろうが、
現在の目・・・・・・
つまり、それなりの年数を経てきた
中年スキャナーで読んでも
ビンビン来るのだ。
いや、中年スキャナーを
通しているからこそ
よけいに響いてくるのでは
ないかと思うようになってきた。
作劇や画像とあらゆる面で
無駄のなさ加減に、舌を巻く。
Fの端正さは、
読む人によっては
淡泊な印象をもたれる場合も
あるかもしれない。
だが、端正と淡泊は違う。
Fの端正さは、
異常なまでの完成度だ。
子どもに楽しく読んでもらうために
全身全霊で端正さを造形している。
子どものことで真剣に働ける人が
本物の大人だと思う。
大人社会の価値観だけでしか
動いていない者は、未熟な大人である。
多少は表現する経験をしてきた
未熟な大人の僕は、
そのFの完成度がベラボーに高い
大人さ加減にまいってしまう。
「大長編ドラえもん のび太の宇宙小戦争」
のクライマックスのドンデン返しには
グワッと胸が熱くなった。
ちょっと前の、青年の僕なら
ここまで感動できなかったんじゃなかろうか。
年を取るということは、
つくづく味わい深いものだと思う。
亡くなる前年(だったと思う)の言葉が、すごい。
「これからは、どういうものがお描きになりたいですか?」
という質問に対して
「ドラえもんですね。
まだ、描ききったという感じがしていないんですよ。
もう、この後にはペンペン草も生えないぞと
いうぐらいまでにやり切りたいんですよ」
おそらく、いま、天国にて
F先生は新作のドラえもんを
執筆しているに違いない。
先日、絵の上手い友人と酒を酌み交わしながらマンガ談義に花を咲かせていた。
お題の一つが、手塚治虫であった。
様々な側面がありすぎて、語るネタが
尽きることの無い大天才。
で、すれっからしの大人が、
よく扱う話題が「手塚の変態性」についてである。
その友人と手塚の話をすると、
いつもそこに触れることになる。
酔った友人は言う。
「ブラック・ジャックのピノコの設定、ヤバイですよ。
今じゃできないんじゃないんですかね?」
「きりひと賛歌の人間天ぷらって知ってます?」
たしかに、一般的には愛とヒューマンの作家と思われているが、
けっこう、残虐なものやグロテスクなものを描くのもうまい作家なのである。
本人の空襲体験を元に描かれた『紙の砦』では、
空襲で焼けこげになった牛を見た手塚少年(作品内では大寒鉄郎)が
大火傷を負った疲れ切っている女の子に「食べてみようか」と
ちょっとニヒルな笑みを浮かべながら、言うのである。
周囲には、牛だけでなく人間の焼死体がゴロゴロしているというのに・・・・・・
女の子は、気持ち悪くなって嘔吐してしまう。
「ごめん、ごめん・・・・冗談だったんだ」と手塚少年は詫びるのだが。
また、初期の代表作『ロスト・ワールド』では
植物から作られた人造人間の少女が出てくるのだが、
物語中盤、遭難し、食料が尽きた宇宙船の中で
腹をすかせた悪人に食べられてしまうのだ!
昭和20年代の子どもマンガであるから、直接描写はないものの
当時としてはかなりショッキング・・・・・・(いや、現在でもか)
こう書くと、残酷でグロテスクな嗜好があって
「手塚はやっぱり変態」って結論になりそうだが、
ちょっと待ってほしい。
ぼくは、この手塚の残酷性やグロテスク性を、
そう単純には語りたくないのである。
それは手塚を単純に愛とヒューマニズムの作家と
断定してしまうことと同じように浅薄な気がするからだ。
残酷とグロテスクは、ちょっと脇に置いてみる。
手塚の魅力のひとつに「エロティシズム」が大きくある
ことは、ある程度、手塚マンガを読んでいる方なら
ご承知のことと思う。
先に挙げた『ロスト・ワールド』では、終盤、
喰われた植物人造人間の双子の姉が半裸で、
主人公と抱き合うという場面がある。
さすがに、世代がずっと下のぼくには、
なんとも感ずるものはなかったが、
子ども時代にリアルタイムで読んだ人には
かなりドキドキものだったらしい。
このことに対しての映画監督・大林宣彦の言が
かなり素敵だ。
いけないものを描いているというより、
人間をありのままに描いてくれる
正直な作家という印象であった。
なるほど、人間を正直に描くと
そこには愛もあるし、
エロスもあるし、
残酷性も、凶暴性も
グロテスクな面もある
ということなのだ。
上述の『紙の砦』のワンシーンは、
誰にでも思い当たるようなことではないだろうか?
普段は、心優しい少年でも
ふと残酷なことを口走ってしまうことがある。
相手を傷つけようという意図があったわけではない。
あまりに悲惨で過酷な状況を切り抜けるために
思いついた冗談である。
彼はとても無力なのである。
この過酷な状況を冷静に判断することができないほどに。
無力ゆえに残酷になる。
それが人間である。
その後、終戦で、この物語は幕を閉じるのだが、
終戦を知った手塚少年は、泣き笑いながら、
顔の半分をを包帯でまいた少女に叫ぶ。
「やったぞー!これでマンガが描けるんだ!
君も歌劇を・・・・・・」
少女は、何も言い返せない。
少女は、歌劇俳優を夢みていたのだ。
だが、焼けただれた顔では・・・・・・・。
手塚少年は、またしても残酷な仕打ちをしてしまう。
ああ、なんて切ないラストシーンだろう。
で、手塚治虫は「変態」か?
変態の定義もなかなか難しいものがあるが、
常人ではない、普通ではないとするなら
充分、変態である。
ただ、そんなこと言っていたら、ほとんどのクリエイターは
変態である。
いや、自然界からしたら、
言語をあやつり、食物を作り蓄え、文明を築く
人類そのものが不自然・反自然的な「変態」だ。
自分から言い出しながらなんなんだが、
近頃は、「手塚が変態か?」なんて問いかけには
あまり意味を感じない。